【あらすじ】
七郷不動産で広報部長を務めた甲斐田了吾。早期退職後に危機管理コンサルタントとして独立開業したが、半年経っても依頼はない。仕方なく交通誘導員のアルバイトで食いつないでいた。そんなある日、甲斐田のもとに会社員時代の後輩で広報部長を引き継いだ三崎浩太から電話が入る。しぶしぶ話を聞いてみると……。

会社は誰かの私物じゃない
夕方から降り出した雨が地面を叩きつける。防雨服を身に着けてはいるものの、服の裏側が濡れ始めているのが分かる。右手に持った誘導棒を上げて車の往来を止める。運転手はきっとイライラしているだろう。「クレームは市に言ってくれ」両手に持った誘導棒を胸の位置で横に倒す。
「いいっすよ」右耳のインカムから軽い声が聞こえてくる。反対車線の車を担当する誘導員は3時間ほど前に初めて会った明石という若者だった。25歳前後だろうか。
誘導棒を小刻みに振り、停まっていた車に走行を促す。イライラが頂点に達していたのか、わざとエンジンを吹かして通り過ぎる車もあった。
誘導棒を振っている自分の姿など、一年前までは想像したことすらなかった。毎日定時に自宅を出て、同じ時刻の地下鉄に乗り出社する。メディア対応や緊急事態が起きなければ、仕事終わりの寄り道は極力せずに自宅で夕飯を食べる。規則的な生活を送る典型的な会社員だった。
雨の日の夜、車を走らせている運転手はどんな仕事をしているのか、1年前はどんな仕事をしていたのか、誘導棒を振りながら考えてしまう。〝お金がなければ生きている価値がない〞などとうそぶく起業家もいたが、人の価値はそれぞれ違う。お金に価値を見出す者もいれば、心の裕福を第一に考える者もいるだろう。何十年後に気がつくのか分からないが、あの若者には後者になってほしいとつい考えてしまう。
「こちら、あと2台で止めます」インカムで伝える。「了解っす。雨強くなってきたっすね」「ああ、そうですね」相手は年下だが敬語で返し、「今行った車で最後です」誘導棒を横にして停止位置で車の通行を遮断する。
「ふう」1時間ごとに休憩がやってくる。強い雨で思いのほか服の内側が濡れていた。下着の替えを持ってきておいてよかった。真夏とはいえ一時間も雨に打たれていると身体は冷え、喉は渇く。制服を脱ぐと冷房も手伝って寒い。タオルで丁寧に身体を拭くとようやく落ち着いた。
「コーヒーどうっすか」相棒の若者が缶コーヒーを差し入れてくれる。自分の分と二本買ってきたようだ。「ありがとう」笑顔...