【あらすじ】
社員が起こした事件の対応を終え、広報の坂垣祐介はマレーシアで久しぶりの長期休暇を満喫していた。帰国のため空港に向かうと上司の武嶋良悟から電話が入る。シンガポールの現地法人で故意的なデータ流出が起きたという。坂垣はその足でシンガポールに向かい、アジア本部データ管理部の大城巧と合流した。

遮光カーテンを勢いよく開けると、雨季に入ったとは思えない澄んだ青空が目に飛び込んできた。ツインタワーが陽に照らされ銀色に輝いている。日本と韓国の企業が建設したこのタワーを見るたび、この国の勢いを感じる。久しぶりに長期休暇を取った。傍から見れば寂しい男に見えるだろうが、独り身の中年男性にとって一人旅は気楽でいい。
「ほんとにすごいタワーだな……」3年前、仕事で1度だけマレーシアを訪れたが、日中にホテルの部屋で過ごすことはなかった。今回は時間に縛られることもない。ベッドサイドの時計に目をやると昼の12時少し前だった。10時間以上寝たことになる。今回は旅行者としてホテルライフを楽しむために来ている。誰にも邪魔されたくなかった。部屋でゆっくりとコーヒーを飲み、時間を気にせずプールに入る。
食事は歩いて10分ほどのパビリオンに行けばなんでもあった。地下道で繋がっているから雨が降っていても心配ない。繁華街までも屋根の付いた遊歩道が続いている。夜は日本とは比べものにならないほどライトアップされたビルが街全体を明るくしていて、歩くだけでも気分が高揚してくる。バッグを胸元に抱えて歩く必要もなく、夜でも安心だった。「帰りたくないなあ」明日にはホテルをチェックアウトして帰国しなければならない。「プールで少し泳いでくるか」2階にあるガーデンプールではお酒も飲めるし軽い食事も摂れた。「至福の時間とはこういうことか」部屋に備え付けのガウンを羽織りエレベーターに乗り込む。
プールには韓国から来ているという子ども連れの家族4人と若いカップルがいるだけだった。「ゆっくりできそうだ」プールサイドベッドにガウンを置き、プールに身体を沈める。寝ていた細胞が一気に目覚め、思考が回り始める。ちょうど1カ月前、社員が起こした事件の対応に追われていたことを思うと、ここにいることが不思議だった。半年前から予定していたこの休暇は事件が発覚したとき「無理だな」と思っていたがキャンセルしなくてよかった。
楕円形のプールを二往復したところでベッドに戻りガウンを羽織る。ビールを注文して飲んでいるうち、いつのまにか寝てしまったようだ。身体のどこにも張り詰めたものがないのだろう...