山陽塗料社員、トルエン撒き散らし事件(後編)
【あらすじ】
社員に劇薬であるトルエンを持ち出され、福山駅前で撒き散らされるという事件が発生した山陽塗料。社員が勤務していた工場前に待ち構えていた50人を超えるマスコミに、川端健志を筆頭とする広島本社広報部は必死に対応していた。東京本社の広報からは執拗に報告を求める電話が鳴り、現場対応を仕切るべき工場長は表に立とうとしない。広報が果たすべき役割は何か─。社内とマスコミの板挟みに苦しみながら、川端はもがき続ける。

戦友
工場正門前で、コメントを口上し工場の門扉を跨ぐ。川端健志は得体の知れない闇にのみ込まれるような感覚を覚えた。塗料の製造・販売事業を広島で起こし、事業を拡大していった山陽塗料。工場はその象徴的存在だった。生産が中国やタイに一時的とはいえ切り替えられて以降、社員の士気が低下の一途を辿っていった。工場の屋根には銀色に塗られた《塗料の山陽》の看板が輝いている。だが、歩を進める川端の視界に入ってくるのは、静まり返った構内と、不気味な重さを地面から伝えてくるモーターの音だけだった。川端はスーツの内ポケットから僅かな振動を感じた。
「現場の状況はどうなっている?」東京本社広報リーダーの種田正也だった。携帯電話を耳に当てながら川端の顔がみるみる変わっていく。
「どうもこうもないよ。まだ状況を把握できていない。とりあえずコメントは出しておいた」「コメントを出した?誰の許可を取ったんだ。俺は何も聞いてないぞ」
また始まったか、と川端が溜息を吐く。広島と東京に本社が分かれている山陽塗料の社内には、目には見えない壁のようなものが2つの本社を隔てている雰囲気があった。広報機能も3年前に分離して以降、東京本社が中心になっている。「こんな時に、いちいち東京の伺いを立てないといけないのか?」「当たり前だろ。勝手な真似はするな。それと、状況を逐一報告してこ…」。会話を遮り、対応を急いでいるので切るぞと告げ通話を切った。状況を知りたきゃこっちに来い!受話口に向け語気を強める。「大丈夫ですか?東京からだったようですが」数少ない部下の藤野和人が後ろから声をかけてくる。「大丈夫も何も、社内に構っている時間なんてないぞ。約束の時間まであと12分しかない」。
「マスコミに説明したければお前らの責任でやれ」。対策本部になっている会議室で迷惑千万といった表情をした工場長の小佐田が、川端と藤野に浴びせてくる。「社員が個人で起こした事だろう。奴に責任を取らせるしかない。正門前にいるマスコミをとっとと退けろ。迷惑だ!」。こんな男が工場長とは……情けなさが先に立つが、そんなことで時間を浪費している余裕はない。『今は小佐田は無視』。小佐田と川端のやり取りに、俯いたままだった若手数人が、会議室から小佐田が出て行くのを確認すると協力を申し出てきた。その筆頭に事件の一報を告げてきた野口がいた。
「現状分かっていることをご説明させていただきます」と川端が切り出す。工場の正門前で待っていたマスコミは、約束の時間通りに戻ってきた山陽塗料広報担当者の説明を立ったまま聞いている。テレビカメラを肩に担いだクルーを含めると50人はいるだろうか。川端と藤野は、工場の若手社員の協力を仰ぎ現状集められるだけの情報を集めた。トルエンをなぜ持ち出せたのか、持ち出した量は、管理体制はどうなっていたのか、持ち出されたのはトルエンだけか、犯人の人物像は、勤務態度は、そして、なぜ責任者が説明しない。マスコミから予想される質問に答えられるだけの情報を集めなければならない。
「最初の説明が最も重要だ」どこかの講演で聴いた覚えがあった。だが、川端と藤野にとって『言うは易く行うは難し』である。本音を言えば、逃げ出してしまいたい。
「えー、保管されていた場所で確認しましたが、持ち出した量は50㎖。トルエンのみです。今回は誠に申し訳ありま…」川端が言い終わるのを待ちきれないとばかりに、矢継ぎ早の質問が浴びせられ ...