
<わたし>が何者かという現実感は連続性に依存する。もし連続性が断ち切られたら、どちらが本物の<わたし>だと確かめればよいか。写真は、チェコ・プラハにある、フランツ・カフカの顔をモチーフにしたモニュメント(写真=123RF)
高校を停学処分になって私のお寺に預けられてきた女の子の話です。寺に来てからの彼女は人が変わったように真面目に、一所懸命に、お檀家さんへのお茶出しや茶碗の洗い物などを手伝うようになりました。ある日のこと、私と二人でコーヒーを飲んでいた彼女がこう言いました。
「私はね、本当は悪い子なの。ここにいる間、良い子のマネをしているだけなの」
ここで皆さんに質問です。「その時の彼女」は「本物の良い子」だと思いますか、それとも「偽物の良い子」だと思いますか。そして「本当は」とか、「マネをする」とは一体どういうことなのでしょうか。
実はこの問いは、禅の修行観(修行と悟りの関係)を考えるうえで極めて重要な問いでもあります …