広告・メディア界の礎を築いた人々「新井静一郎・梶祐輔」

公開日:2014年6月18日

  • 岡田芳郎

広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われはじめて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。

新井静一郎(1907(明治40)年11月25日~1990(平成2)年9月1日)は、昭和の宣伝技術界をリードした人物の一人だ。

森永製菓広告課を経て、戦後、電通に入社。宣伝技術局長、常務取締役を歴任し、常に広告表現の在り方について指導的役割をつとめてきた。温厚篤実な性格、控えめで面倒見のいい人格者であり、さまざまな広告技術団体の中心的存在として活躍した。

1952(昭和27)年5月、新井静一郎は全米広告連盟に招かれ、電通から派遣されて48日間にわたりアメリカ広告事情を視察した。日本の広告技術者としておそらく初めての渡米であろう。帰国してその年の暮、「アメリカ広告通信」を電通から刊行し、広告主,広告会社、制作プロダクションの宣伝技術者に強い衝撃と新たな展望をあたえた。それは日本の広告づくりとまったく違っていたのだ。電通の吉田秀雄社長は序文で「アメリカでは広告宣伝活動というものの知識がすでに完全に国民の常識となっており、一切のものの経営がこの活動なしには考えられないという事実と、さらにこの活動そのもの並びにこれに従事する人々の価値が一般に非常に高く評価されている」ことを強調し、新井が鋭い眼識で観察したアメリカ広告界の実態を学ぶことを勧めた。

この時以来、新井は宣伝技術界をつねに先導する立場を持たされるようになった。

東京ADC(アートディレクターズクラブ)が発足したのは ...

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