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私たちの福音

「お疲れさま」と、その日の業務を終えると同時に身も心も完全に仕事から解かれる、という経験が、私には数えるほどしかない。かつて出版社で編集者をしていた頃は、家に帰る電車の中で特集の企画をつい考えてしまったし、ベッドに入った途端「今日戻したゲラのあそこ、誤植だったかも」と飛び起きることもしょっちゅうだった。ボーッとTVを見ていても、気分転換に旅に出ても、うっかり仕事のヒントとなるものを見つけてしまい、なんだかちっとも区切りのつかない自分の職業を恨んだものである。

物書きに転じた今も、この傾向は相変わらず。いや、ますますひどくなっているかもしれない。小説の連載はたいがい一年ほど続く。準備も含めれば二年、三年とかかる。だから一日の仕事を終えても、どことなく区切りのつかない思いを抱え続けることになる。連載が終われば、今度は単行本作業が待っている。本が完成してようやく一段落……のはずが、反応が気になったりして少し落ち着かない。担当編集者と打ち上げをしたりもするが、結局はひとりひっそり「よくまぁ投げ出さずに仕上げたよ」などと自分を慰労するのが関の山。そういえば、毎日家に籠もって書いていて、同僚もいないせいで、「お疲れさま」のひとことさえとんと聞いていない。

私のような一介の物書きと一緒にするのも恐縮だが、この区切りのない感じ、広告業界の中でも抱いておられる方は多いのではなかろうか。CMなり広告が仕上がるまではさまざまなアイディアが四六時中頭の中を巡っていそうである。ベッドに入るや妙案を思いついて飛び起きることもあれば、それこそTVや映画を観ても、本を読んでも旅に出ても、仕事と結びつけてしまったりするのではないか。制作過程で噴出する山のような問題をクリアし、いざ完成を見ても、市場の反応や影響を冷静に分析する仕事がおそらくは残っている気もする。

しかも、そうやって世に出した作品は、制作上の苦悩や苦労なんて知りません、という顔をしていなければならない。いかに優れた作品であれ、「作った人はさぞ苦労したろう」なんて思わせたらやはりいまひとつで、まずは純粋にその映像なり物語に没頭してもらう、楽しんでもらうことで成就するのだから難儀だ。その上、大変な割に、楽しそうに見える仕事という特性も手伝って、明解なねぎらいや感謝が作り手にもたらされることは意外と少なかったりするのかもしれない。

けれど広告にせよ小説にせよ、それに接した見知らぬ誰かが、笑ったり泣いたり驚いたり心を揺さぶられたりすることが、実は作り手にとってこれ以上ないねぎらいや感謝の言葉となるように思うのだ。その声は余さず作り手の耳に届くとは限らない。ずっと遠くで立ち上っているかもしれないし、もしかすると十年後、二十年後に聞こえてくる声かもしれない。でも、正直に真摯に作った制作物には、そうした福音のような「お疲れさま」が必ず降り注ぐと、私は漠然と信じている。すべての区切りのない日々は、きっとそこへ通じているのだ、と。

木内 昇

profile

きうち・のぼり
1967年東京生まれ。出版社勤務を経て、2004年『新選組 幕末の青嵐』で小説家デビュー。08年『茗荷谷の猫』刊行、翌年第二回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。11年『漂砂のうたう』で第一四四回直木賞を受賞。

コメント

「お疲れ様」というテーマをうけ、エッセイにこめた想い

仕事と暮らしが一緒くたというのは区切りがなくて疲れますが、
それだけ夢中になれるものが仕事になっているというのは、
案外幸せなことのような気もします。

このエッセイを読まれた方へ

大変じゃないこと、すぐ答えが出るようなことは、
たぶんそんなに面白くも奥深くもないことです。

明日へ向かうために欠かせないこと

運動、睡眠、親しい人とのくだらないおしゃべり。
いずれも、嫌なことがあったとき、それを忘れて次へ向かうのに欠かせない要素。
また、体を動かすと案外いろんな発想が浮かんできますし、気持ちが陽性になります。

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