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「じゃ、また、いつか」

友人のカメラマンが一時期、写真を辞めようかと真剣に悩んでいた。

彼は天才的なカメラマンで、彼の写す女性の画は、今まで誰も写したことのないような端々しさと人間臭さにあふれていた。

彼は半日でも、女性の被写体にカメラを向けていると、ハーゲンダッツが溶けるよりも簡単に、恋に陷ちるのだという。

カメラマンと被写体がレンズを通して、瞬間の疑似恋愛をするというのは、ある種のテクニックであり、さして珍しい方法論ではない。モデルはレンズの向こう側に実際の恋人のまなざしを思い浮かべ、写真家はその瞳に刺激されながら、一秒間を長く豊かに感じ、甘酸っぱくなる。

しかし、どれだけ彼が甘酸っぱい男汁を脊椎に流し込んだとしても、撮影が終われば仕事が終わる。

「撤収」という名の味気ない別れが当然訪れる。いや、無論そうでなくては困る。これは単なる仕事だからだ。

「それまで、撮影してる時は、俺も相手も心が通じていたんだよね。絶対。わかるもん、俺。でも、撮影が終わった途端に、その子は、なんにもありませんでしたみたいな顔で、俺じゃなく、マネージャーと帰っていくわけ。“お疲れさまでしたー”ってさあ。もう、そのつらさに耐えられなくて、カメラマン辞めようかなって、思うんだよなぁ」

夜景の見える、青山のバーだった。彼の言葉のどこにも冗談の香りがしないことを察した私は、深刻な表情を作って頷き、夜景に目をやると青山通りは赤と白のライトが脊椎液のように行き来している。私は思った。

“本物のバカだな、コイツは…”

トンチンカン。アンポンタン。その辺の3発で跳ねてくる感じがしっくりくるバカだ。フーテンの寅さんでも、もっと休み休み恋をするもんだが、奴はカメラマンである以前に男であり、男である以上に稲中だった。純粋さは時として喜劇である。

しかし、ここで彼の悲劇を汲み取って考えるならば、その痛みの根幹には、この「お疲れさま」という言葉があるように思う。

毎日決まって顔を合わせる会社のような場所における「お疲れさま」には慰労の他に“また明日”という意味も含まれている。“お疲れ。また明日も頑張ろう”

ところが、彼や私のような一期一会、フォレスト・ガンプな稼業においての“お疲れさま”は未来永劫会うことのない今生の別れであり、その最後の言葉なのである。

妄想とはいえ、先程まで恋愛をしていた女が、ホストくずれのマネージャーと帰って行く時のビジネスライクな「お疲れさま」

私も、充実した仕事現場から立ち去る際、相手から聞く「お疲れさま」に他人行儀を感じて淋しく想ったり、自分が「お疲れさま」を口にすることが物足りない気持ちになり逡巡したりもする。

もう二度と会うことはないのだろうけれども、今日の労いと感謝を込めて、私はこう言っている。

「お疲れさまでした。じゃ、また、いつか」

ちなみに、その友人はもう、女の写真を撮ってはいない。

profile

りりー・ふらんきー
1963年福岡県生まれ。イラストレーター。イラストやデザインのほか、文筆、写真、作詞・作曲、テレビドラマ、映画、舞台など、多種多彩な分野で活動する。初の長編小説「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」は、220万部を超えるベストセラーに。

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