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疲れは途中にある

北野武が初監督した映画『その男、凶暴につき』(89年)で、たけし自身が演じる刑事が犯人を追いかけて、途中でやめて歩き出す場面がある。

それまでの刑事ドラマに出てくる刑事はずっと追いかけるものだったから、なんだか驚いた。

最初から走らない怠惰な刑事ならば、これまでにも誰かが演じてきたかもしれない。途中までは走って、やめてしまうということの生々しさが、地味な場面ながら印象的だったのだ。バブルまっただ中の公開で、浮かれた時代と思えない不機嫌な気配に満ちている。

なんでも途中までやらないと、疲れに気付かない。疲れに気付いたとき、気持ちは静かだ。大勢でなにか作業をしていて、皆が同時に疲れたとしても、それを感じるのは一人一人だ。誰かが「疲れたー」と言って別の誰かが「そうだね」と同意し、共有することはできるが、本当は一人一人ずつが勝手に疲れている。

そうだねと同意してもらえればまだいい。僕はすぐ疲れる。どこか外出すればまず思うのは「座りたい」だ。

何人かで旅行にいけば、まず一番先に疲れる。なんでそこに座って休める喫茶店があるのに皆は「次、あそこいこう」とか言い合ってるんだろう、と恨めしく思う。

だけど疲れは一人一人ずつのことだから、理解されなくても仕方ない。
それで、疲れる自分をあらかじめ見越し、旅程の一日を単独行動にし、ホテルで休むことにしたりする。
「ごめん、原稿一つ書かなきゃいけなくてさー」とかなんとか理由をつけて。

疲れるから、では感じが悪いと思ってのことだが、しかしどうも、これは見透かされる。「付き合いが悪い!」と怒られることしばしばだ。

犯人を追いかける刑事の疲れを、追いかけられている犯人は知らない(当たり前だ、みていたら捕まるから、振り向くわけがない)。何人かで分かれて追いかけたら、仲間の刑事だってみない。

別の建前をいっても、ときに疲れは見抜かれる。疲れは一人きりのときこそ存分に露にするべきなのだ。 映画はそのことも教えてくれている。

だが、疲れることと、疲れたと思ったり口にしたりすることは、実は別のことで、疲れるのは嫌なことではあるが、疲れたーと実感するのは悪いことではない。充実した作業の結果の「心地よい疲れ」はもちろんだが、徒労に終わりそうななにかの途中でも「疲れたな」と感じるのは、気付かずに従事しているときとは違った、俯瞰した気持ちをもたらす。

だから、人には「お疲れ様」って言うのがいい。

タクシーを降りるとき(よほどの近距離ならともかく)「お疲れ様です」という癖がある。実際、疲れそうな仕事だが、他のサービス業と比べてもたとえば飲食店で良いサービスを受けても、言わない言葉だ。

感謝というよりは実感だ。疲れは終わりではない「途中」にこそある。
運転手には僕をおろした後もまだ帰路が残っている。自覚がなくとも俯瞰すべきだ。
それでガラにもなく、そんなことを言うのだ。

長嶋有氏

profile

ながしま・ゆう
1972年、埼玉県生まれ。東洋大学卒業。2001年に『サイドカーに犬』で第92回文學界新人賞を受賞しデビュー。02年『猛スピードで母は』で第126回芥川賞、07年『夕子ちゃんの近道』で第1回大江健三郎賞を受賞。近著に『フキンシンちゃん』『佐渡の三人』。

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