Vol.68 中学受験とおじさんの尻

犬山 紙子

小学生の頃「お受験」ということでひたすら勉強をさせられていた。父の書斎を借りて勉強をするのだけど、そこからは隣の家の窓がよく見えた。隣の家の窓は開いていることが多く「ただいまでござる〜!」と仕事帰りのおばさんの陽気な声も聞こえてくる。「女の人も働くんだな」「大人がござるとか言うのか」と驚きつつ、目を参考書に移して「ボーキサイトは100パーセント輸入」などブツブツ覚える。ボーキサイトが何かなんかわかんないけど、とりあえず輸入が100パーセント。輸入が100パーセントってどういうことなのか、それもわからないけど、ボーキサイトは輸入が100パーセントなのだ。

私はこういった詰め込み系の勉強が心底嫌いだった。暗記ペンをピッと引いて赤いシートで隠して覚える。何が楽しいんだろう。ボーキサイトを産出する人たちの半生や恋や悩みなんかまで知れたら興味を持てたかも、でもそんなこといちいち考えていたら、テストに必要なこの膨大な量の暗記は無理だ。ずっと暗記ペンとシートの繰り返し、飽き切った作業を黙々とやる日々は私を思考停止させた。とりあえず覚えたらいいんでしょう。

そんな日々を1年半。小六の夏休み、中学受験できっと一番大切な時期だけど正直やる気はまるでなかった。書斎の椅子を左右に揺らしながらダラダラしているとギョッとするものが見えた。隣の家のおじさんの尻である。おじさんがカーテンを閉めるのを忘れて着替えをしていたのだ。

うんこ、おしっこ、おならが大好きな小学生、おじさんの尻なんか大好きに決まってるし大爆笑である。姉と弟を「お尻!お尻!」と呼びつけて、「尻が何?」と怪訝な顔した2人に窓の外を見てもらおうとするも、もうおじさんの姿はない。でも私は笑い続け、転がり、プツッと何かの糸が切れた。

それから「またおじさんの尻が見えるかもしれない」とちょっと期待しながら書斎へ行くようになった。勉強するフリだけして幽遊白書をひたすら読んで、ひたすらノートに飛影のイラストばかり書くようになった。それまで親に嘘ついたことなんかなかったのに。

お尻はその後見えることはなかったけど、隣のおばさんの明るい「ただいまでござる〜」という声はちょくちょく聞こえてきた。私も心で「サボりでござる~」と返事をして、飛影と付き合うためにはどうしたらいいのか真剣に考えたり(だいたい絶望で終わる、まず魔界に行けない)、勉強で唯一楽しかった算数の勉強をしたりしていた。

そして冬、偏差値は10下がり、それでも志望校は変えなかったため、もちろん滑った。滑り止めで受けた中学へ行き、もちろん勉強はしない。受験が終わったので解禁されたスーファミとプレステ三昧の日々、親はだいぶ諦めていたと思う。親も親で子供の受験を何年も見続けるのは大変だったんだろう。1年の時は特進クラスだったけど、2年になるころは特進クラスからも落ちた。成績と反比例して私のクラウド(FF7)はレベル99だし、ナイツオブラウンドは9999ダメをバシバシ弾き出す。

37歳、今の私は2次元をこよなく愛し、ボードゲームに夢中で、夫の尻ダンスで爆笑して、「ただいまでござる〜」と仕事場から帰ってくるカーチャンになった。とても愛おしい生活。あの時、隣の家の窓から陽気が漏れ出て私の人生に入ってきたからだろう……ありがとうでござる。

PROFILE

犬山 紙子

仙台のファッションカルチャー誌の編集者を経て、家庭の事情で退職し上京。東京で6年間のニート生活を送ることに。
そこで飲み歩くうちに出会った女友達の恋愛模様をイラストとエッセイで書き始めるたところネット上で話題になり、マガジンハウスからブログ本を出版しデビュー。現在はTV、ラジオ、雑誌、Webなどで粛々と活動中。
2014年に結婚、2017年に第一子となる長女を出産してから、児童虐待問題に声を上げるタレントチーム「こどものいのちはこどものもの」の立ち上げ、社会的養護を必要とするこどもたちにクラウドファンディングで支援を届けるプログラム「こどもギフト」メンバーとしても活動中。その反面、ゲーム・ボードゲーム・漫画など、2次元コンテンツ好きとしても広く認知されている。

Vol.68 犬山 紙子

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

窓ではなく、戸だったら。戸を開けられてめちゃくちゃ眩しいところから「こっちにおいで」と言われても私は更に心を閉ざしていたと思う。心が閉じている時はまず窓を開けるぐらいがちょうど良いんだと思います。

このエッセイを読まれた方へ

きっとあなたの窓から漏れ出る灯りも、意図せぬ相手に影響を与えているんだと思います。

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