Vol.57 「闇夜の海原に」

堀本 裕樹

一家のなかでリビングの窓が一番大きいのだけれど、毎日そこから海を眺めて暮らしている。

湘南の片隅の街に引っ越してきて、まだ一年と少ししか経っていないからか、窓外の景色が毎日新鮮で見飽きることがない。

ひとくちに海が見えるといってもいろんな見え方があると思うが、この家の海の眺めは相当広がりがある。前方遥かには伊豆大島が浮かび、西は真鶴半島、その向こうに伊豆半島、東は江ノ島から鎌倉、三浦半島の辺りまで見渡すことができる。パノラマとはまさにこのことで、波打ち際から沖の方まで開けた視界は、太平洋そのものといっていいくらいである。

引っ越す前に初めてこの物件を内見したとき、海原の眺望があまりに素晴らしかったので、「すごい」という言葉しか口を衝いて出てこなかった。俳人ならば、海を見つめながら一句詠んでもおかしくはない風景かもしれないけれど、この家に自分が住むかもしれないと考えると、とても冷静ではいられなかった。頭を俳句モードに切り換えることすらせずに、ただしばらく蒼海を眺め続けたのだった。

斡旋してくれた不動産屋の店長も「ここまで海の眺望が開けた物件はめったに出て来ないですよ」と太鼓判を捺してくれたこともあって、僕はすぐに契約することに決めた。長年憧れてきた海の見える家との運命的な出会いであった。

そうしてこの家に引っ越してきて暮らし始めたある日。リビングのテーブルで原稿を書いていた夜更けのことである。

ふとパソコンの画面から顔を上げて真っ暗な海に視線を移した。闇に包まれた海原の遠くに灯りの塊が一つだけ、ぼうと浮かんで見えたのである。見慣れないその灯りに僕は色めき立った。これは船であることは間違いない、でもひょっとして……。すぐさま椅子から立ち上がると、双眼鏡を手に取ってその灯りに焦点を当ててみた。焦点が合った瞬間、「すごい」と思わず声を漏らした。ここでもやはり「すごい」という言葉しか出て来なかった僕のひょっとしてという予想は見事に当たった。

双眼鏡のレンズに映った灯の正体は豪華客船だったのである。

闇夜の海原に浮かんだ巨大な客船の灯りは絢爛豪華という言葉に尽きると思った。それからしばらく見つめているうちに、いやそれだけではない、煌びやかで豪奢な光芒のなかに、何とも言えない寄る辺なさと淋しさが瞬いていると思い返したのだった。

やがてだんだんこちらに近づいてきた客船の灯りは双眼鏡のなかでも光度を上げていき、さらに煌めきを増していった。たくさんの客室からそれぞれのひとときの灯りが漏れて光り輝いていた。

もしかしたらあの客船の上では、スコット・フィッツジェラルドの小説「華麗なるギャッツビー」で繰り広げられていたような華飾に富んだパーティが開かれているのかもしれない。それとも映画「タイタニック」でレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが演じたような愛の物語が生まれているのかもしれないなどと、僕は自分でもロマンチックで空想に過ぎると思いながら、夜の海原に現れた輝きに胸を熱くさせたのであった。それは湘南の片隅の街の一軒の窓灯りと豪華客船のいくつもの客室の窓灯りとが小さな双眼鏡を通してわずかなあいだ繋がったことの胸の震えでもあった。

PROFILE

堀本 裕樹

1974年和歌山県生まれ。國學院大学卒。「河」編集長を経て、2018年に俳句結社「蒼 海」を立ち上げ主宰を務める。俳人協会幹事。東京経済大学非常勤講師、二松学舎大 学非常勤講師。第2回北斗賞、第36回俳人協会新人賞、第11回日本詩歌句随筆評論大 賞を受賞。著作に、句集『熊野曼陀羅』、『俳句の図書室』、又吉直樹との 共著『芸人と俳人』、穂村弘との共著『短歌と俳句の五十番勝負』など。
公式サイトhttp://horimotoyuki.com/

堀本 裕樹

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

自分が過ごしている時間に、他の人の過ごしている時間が確かに存在します。そこに思いを馳せることのロマンチズムと儚さを深夜の海に浮かべてみました。

このエッセイを読まれた方へ

豪華客船に乗ったことはありますか? 僕もいつか乗ってみたいと思っています。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

波音と本とハーブティ。