Vol.50 「あたたかいスープ」

河瀬 直美

いくつかのコマーシャルの演出を依頼され携わったことがある。自身の作品に関しては、自分がその表現の原点であるが、コマーシャルの場合はクライアントがいてそこに伝えたいメッセージがあり、それを形にする為に制作者に意図を伝える代理店と呼ばれる人々が存在する。その代理店にも大きく分けて営業部とクリエイティブ部の方がいて、前者はどちらかと言えばクライアントの側に寄り添っているのに対し、後者は制作者の側に寄り添っている。一概には言えないが、たいていはそのような人間関係があらかじめ出来ている。よってクライアント→代理店→制作会社という上下関係も明確だ。

さて、「萌の朱雀」がカンヌで新人監督賞を受賞するという快挙を若干27歳にして成し遂げた女性監督に対するイメージはとてもこだわりのある「作家」といった具合だったに違いない。そんなレッテルを貼られながらも、わたし自身にはコマーシャルはクライアントのものであるという確固たる意志があった。それでも、コマーシャルの常識たるものを知らないわたしのアイデアはそれが生命保険のコマーシャルだというのに「死ぬ」というナレーションを存在させたりしたものだから、後で聞いたところによると代理店の方はそのわたしの表現を守るためにクライアントと何度も話し合いの場をもうけてくれていたのだった。

さて、事件は本編集真っただ中の編集室でおこった。突然クライアントが乱入してきたかと思うと、その作品を認めないと言い出し、挙げ句の果てにはカンヌかなんかしらんけど、作家きどりのお姉ちゃんに何がわかるんだというような暴言を吐いてその場は騒然となり、やがて静寂に包まれた。誰も何も言えないまま、長い時間が流れた。と、代理店の担当者が突然立ち上がり、深く頭を下げ、「申し訳ございませんでした」と謝罪をした。その態度を見たクライアントは何も言わずに編集室を出て行った。やがて、その場にいたスタッフたちが所在なげにいるところに深く頭を下げた男性は一言「とりあえず、あったかいものを食べましょう」と告げた。そのときのわたしの心にはその言葉がどんな美味しいスープよりも染入ったのは言うまでもない。ああ、この人の為にも、自分にできることを全うしようと思った。どうしたって自体がどうにもならない時は、とりあえず温かいものを口に運ぶということを知ったわたしはあれ以来、現場でどんなきつい状況の時にも、いや、状況がきついからこそ、しっかりと食べ物を口に運ぶことにしている。ただでさえ寝不足で頭の中は仕事でいっぱいな時にこそ、美味しい食事をいただくことを河瀬組の現場で徹底しているのはあの時の経験があるからだ。

後日、代理店の担当者はクライアントとの話に決着をつけ、温かいものを共にした同志は無事作品を納品、そのコマーシャルはその年のACC賞を受賞することになる。

ものを創るということの背景には様々な困難がつきものである。いくら自分ひとりが頑張っても理不尽な結果に終わる事もある。それでも、そこには共に創る仲間がいて、それを目にする人々がいる。その役割を全うする為に、どうか温かなスープを口にすることを忘れないで欲しい。そして、からからに乾いている心を抱え込んでいる同僚や後輩が居たら、共にそのスープを呑む時間を費やして欲しい。やがて、世界はそこに宿った温かなものによって、よりよき方向に導かれるのだから。

PROFILE

河瀬 直美

映画監督
生まれ育った奈良を拠点に映画を創り続ける。
一貫した「リアリティ」の追求はドキュメンタリーフィクションの域を越えて、カンヌ国際映画祭をはじめ、世界各国の映画祭での受賞多数。
世界に表現活動の場を広げながらも故郷奈良にて、2010年から「なら国際映画祭」を立ち上げ、後進の育成にも力を入れる。今年は9月20日~9月24日に第5回目を開催。
最新作『Vision』(主演:ジュリエット・ビノシュ、永瀬正敏)は6月8日より全国公開。
また、11月23日よりパリ・ポンピドゥセンターにて、大々的な河瀬直美展が開催される。

河瀬 直美

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

窓の灯りは、夜にならないと見る事ができない・・・
そこに行きたいのに、行けない、そんな切なさの向こうに、それでも頑張ろうとする気持ちを表現できればと思いました。

このエッセイを読まれた方へ

一人一人の大切なものがあると思います。
自分の大切なものを大切にして、今日を過ごしてください。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

過去のアルバムや手紙を見返します。
そうして自分が生きてきた時間を反芻しながら、また明日がある歓びに向かうのです。