Vol.20 マッチ一本分の光 三山桂依

子供の頃から人に理解してもらうのが下手な子供だった。実の親にも理解されにくい性格が災いして悲しい思いをすることが時々あった。こういう出だしだとなんだか「自分不器用ですから」とはにかみながら下を向く先日他界されたばかりの高倉健さんのような子供の姿が脳裏に浮かんでしまう。私は元々手のかからない、要は泣かない、不機嫌にならない子供だった。ただそれは従順でいい子な訳ではなく。たまたま親の希望とわたしの言動が幸運にも一致して見えていただけで、そこにずれが生じると親は首をかしげ途方に暮れた。子供の頃それを上手く親に伝えることが出来ず、私のコミュニケーション技術はお話してダメなら描いてみる、でそれでもダメなら書いてみると、おかげ様で不必要に発達した。

かつてお茶の先生に、世の中「一番得なのはバカに見えて賢い人、その次は賢く見えて賢い人、そのあとはバカに見えてバカな人、一番損なのは賢く見えてバカな人」と言われたことがある。お説ごもっともで、見るからに不器用そうな子は自他共に思っているほど、大体において損していないのである。一番損するのは要領良さげで心配ないと思われている子だ。きょうだいの間でどちらかが嘘をついているが、お互いついていないと言い張った場合、言葉下手の子供のほうに同情票が入りやすく有利になり、言葉巧みなほうが濡れ衣を着せられる。同じ理由で大人しい子よりお調子者の方が怒られる確率が上がるのである。努力して周りを笑わせたり、あれこれ考え、どうにか気持ちを的確に伝える言葉を探し出す苦労をしたのに、罰せられるという理不尽に耐えかねて、時々家の二階の窓から外に出て屋根の上で一人途方に暮れた。

涙に滲んだ目の前に無数に灯る住宅地の窓の灯りはまるで天地をひっくり返した無数の星のように輝き、マンション群はまるで巨大な蜂の巣のようにそれぞれの窓から蜂蜜色の光が漏れている。それは他人事でも見ているだけでうっとりするほど、綺麗で暖かい光に見えるのだ。窓の外から眺めると全ての光一つ一つが愛や家庭の温もりに満ちて見える。子供の頃はそんな光を見ながら、何処かに自分を愛して可愛がってくれる人はいないものだろうか?と実の父親に顔も性格も瓜二つなのに、私は間違えてこの家に生まれてしまったのではないかとか、色色妄想したものだ。まるで寒い日にマッチ売りの少女がマッチをすっては暖かいストーブ、七面鳥、クリスマスツリーの幻想をみるように、買ってもらえなかったゲーム機器、連れて帰れなかった子猫、きょうだいに壊された大切なもの達などが走馬灯のように浮かぶ。

大人になって、その美しく街を彩る窓から漏れる蜂蜜色の幸せそうな光の中では、夫婦が冷戦状態で憎しみあったり、子供が引きこもっていたり、永遠に終わりそうもない残業や、妻達の虎の威を借る自慢大会、もっと恐ろしいことも行われている可能性は知っている。ただそれらの窓の明かりは外の闇から見た時は常に人の温もりや期待を感じさせる、キラキラと美しいだけの無数の蜃気楼となる。

窓の向こう側からみたら、修羅場だろうと、悲劇的状況にあっても、闇に浮かぶ我が家の窓はやはり、同じように誰かからは幸せそうに見えるのであろうかとふと思う。そしてそれは窓の中からは見えないけれども、外からははっきり見える幸せの一つの形なのだと気がつくのである。

PROFILE

三山桂依 みやまけい

横浜生まれ。青山学院大学文学部英米文学科卒業。
2011年に短編集『おやすみなさい。良い夢を。』(講談社)でデビュー。
2013年『色 Colors』(芸術新聞社/プラープダー・ユン氏と共著)を上梓。
「DRESS」(gift)にて2014年より映画評論連載中。

三山桂依近影

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

光のあるところには、必ず人がいて、人がいるところには、希望や幸せがあると自動的に思ってしまう現代人の思い込みと、12月のこの季節を重ねてみました

このエッセイを読まれた方へ

痛みや虚しさ悲しみも感じられるのは、実は幸福の一つのパターンなのでははないかと

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

長風呂、死体のポーズ、白米をたくさん食べる、アイスクリーム、鍋を磨く、靴を磨く