Vol.19 必要最小限の灯り 千早茜

都会で大停電が起きて、その十ヶ月後にベビーブームがきた、という話を聞いたことがある。

嘘か真かわからないけれど、それだけ都会には暗闇がなくなっているのだろう。確かに、仕事で東京に行くと、人工的な光の氾濫にちょっと慄く。特にビルの窓の圧迫感がすごい。壁という壁が窓である。高いビルがほとんどない京都に住んでいるせいもあるのだろうが、東京のオフィス街で連立したビルの窓の灯りを見上げるといつも気が遠くなる。オフィス街のビルの中で、寝たり、お酒を飲んだり、だらだらテレビを見ている人がいるはずもない。白い窓の光は中で仕事をしている人の証なのだ。こんなに人がいるのか、しかも、こんな時間までこうこうと電気をつけて勤勉に働いているのか、と怠け者の私は京都に逃げ帰りたくなる。

京都という街は、奥まった構造をした建物が多いせいか、繁華街以外は灯りがおおっぴらにもれることがない。街中でも、一方通行の夜の道はわりと暗い。ぼんやりした灯りがぽつんぽつんとある感じだ。なんだか、ほっとする。

小さい頃、アフリカのザンビアに住んでいたことがあった。赤道の少し下あたりの国である。首都に住んでいたが、夜はとても暗かった。家は一応高級住宅地のある高台にあったが、そこから見下ろせる町の灯りも細々としたものだった。天上の星の輝きの方が強かった気がする。

ザンビアではしょっちゅう停電があった。理由はわからないが、テレビも1チャンネルのみで夜の数時間しかやっていないような国なので、停電になったからといって腹をたてる人々もいない。私たち家族も最初は停電の度に右往左往していたが、そのうち「ああ、またか」としか思わなくなっていった。

ただ停電になると、とりあえず外に出た。強盗が電気回線を切った可能性もあるので、まわりの家も同じように暗いかを確認するためだった。懐中電灯を持って外に出ると、防犯のために庭で放し飼いにしていた犬たちはきょとんとした顔をした。動物にとっては灯りなど何の意味もないことなのだろう、と思った。人間はそうはいかない。常備している蝋燭に火をつけて、寒い季節には暖炉に薪をくべて、灯りと暖をとった。アフリカとはいえ、乾燥した気候なので夜が冷える時期もある。

各自、蝋燭たてに火を灯した蝋燭をさし、部屋を移動したりトイレに行ったりする時には持ち歩いた。停電の夜はかすかな高揚感があった。溶けた蝋をこねて遊び火傷をしてしまっても妙に楽しかった。電気が通っている日はお化けが怖かったりするのに、なぜか停電の日は怖くなかった。私は子ども部屋に一人でこもり、蝋燭の灯りで本を読んだ。なんだか特別な冒険をしているような気分になったものだった。

しかし、そのおかげで私は目が悪くなり、帰国するなりぶ厚い眼鏡をかけなくてはいけなくなった。黒板の字がまるで見えなかったのだ。日本というのは遠くの文字が読めなくてはいけない国なのだと気付いた。そのために、ふんだんな光量の灯りがいるのだ。

ときどき蝋燭の火が懐かしくなる。手元を照らし、歩くのに困らないだけの、必要最小限の灯り。大停電が起きたら、家々の窓からもれる灯りはどんなだろうと思う。人が夜を過ごすのに必要なともしびの本当の大きさが、その時にわかるのではないだろうか。

PROFILE

千早茜 ちはやあかね

1979年北海道生まれ。
2008年「魚神」で第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
同作で第37回泉鏡花賞を受賞し、注目を集める。
2013年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞を受賞、第150回直木賞候補となる。ほか近刊に『眠りの庭』など。

千早茜近影

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

ふだんは気にとめないことについて考える機会をいただけるのはありがたい、とエッセイの依頼を受けるたびに思います。

このエッセイを読まれた方へ

なにかを感じてもらえると幸いです。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

めくるめく妄想(必ず悪夢をみますが……)。